
1974
-2014
佐竹修次さん
所属:カメラ

1969
-1975
神崎 博文さん
所属:カメラ

1974-

-2004
佐竹 修次さん
高校を卒業して一度はマツダに就職したが、写真の魅力を知って九州産業大学で学んだ。みづま工房では、特にカープを担当、迫力あるプレーや練習の合間に見せる素顔など選手達の様々な表情を撮影した。
1969-

-1975
神崎 博文さん
戦場カメラマンにあこがれていたが、やはり命が大事と思い、広告の世界に入った。人物の生きた表情をとらえるのが得意で、退職してフリーになった後もみづま工房の仕事を多く引き受けていただいた。
神崎さんは、中途採用でみづま工房に入社。その際に、当時の責任者から採用にあたっての課題を言い渡されました
神崎 「広島をテーマに写真を撮ってこい」と言われました。テーマは「なんでもええ」だったので、まず原爆のことが頭に浮かびました。でもそんな写真はすでにいろんな人が沢山撮っているだろうし、自分でもそういうのを撮るのはいやだな、と思って広島には川がたくさんあるから「川の多い街」をテーマにして写真を撮りました。それを撮って帰ったら「まあ、ええじゃろう」ということで採用されました。その何枚かの中で、一番気に入っているのは、子供たちを撮った写真です。今見るとちょっとくせがあって若かったんだなぁと思います。わざと少しトーンを暗くするという当時はやっていたテクニックを使っていました。その時、「うちは仕事がきついで」とも言われましたが、それが12月の半ばだったので、とりあえず働くところができてよかったという気持ちでした。その当時は、私の上に3人のカメラマンがいました。

みづま受験時課題として提出した写真。自主テーマは「川の多い街」
佐竹さんは、カープが初優勝を果たす1年前(1974年)に入社しています。そしてカープ担当として撮影をすることになりました。大学で写真のことは学んでいましたが、プロスポーツの撮影は当然初めての経験でした。
佐竹 野球の撮影は楽しかったです。特にしんどいとも思いませんでした。これが仕事だと思ってやってました。ただ、前の日のナイターの試合が終わって撮影したやつを現像して、次の朝一番に上司(横洲さん)に持っていくと、フィルム自体は10本もなかったと思いますが、昼までびっちりと指導を受けました。それが続くとだんだん「早く終わってくれ」と思うようになり、その時間が大変でした。
当時、みづま工房は、旧広島市民球場から歩いて20分ほどの上幟町にありました。
佐竹 ナイターが終わってから会社まで歩いて帰っていましたが、当時はまだバラック(※1)がまだありました。
神崎 その辺の長屋に住んでいた社員もいました。朝、呼びに行くこともありました。そんなにきれいじゃなかったですが、家賃が安かったんでしょう。当時会社は、1階に駐車場とスタジオがあって、まだ制作の人もいました。そこではシルク印刷みたいなこともやっていたし、写植(※2)もあった。
(※1)バラック:原爆投下後に建てられた簡易的な建物。戦後しばらくの間、多くの被爆者が暮らしていた。
(※2)写植:写真植字の略で、文字を写真の技術で印刷用に加工する仕事のこと。

佐竹さんが入社して最初に取材したと思われる1975年3月23日、対太平洋オープン戦でのひとコマ。

73年当時のみづま社屋(上幟町)。右奥が県立美術館。このあたりはもともとみづまの敷地で、かつてはみづまの社員寮があったが、県立美術館建て替えに際して土地を寄贈したという。
みづま工房で働く中で一番印象に残っていることを聞きました。

70年代半ば、広島市民球場周辺にはまだバラック状の住宅が点在していた。(写真は1973年)

みづま工房で働く中で一番印象に残っていることを聞きました。
神崎 秋田への出張があったんです。マツダの海外向けのカレンダーのプレゼン資料を撮影するために秋田で雪の中で花嫁を乗せた馬車が通るシーンを撮りに行きました。僕はアシスタントとして同行したんですが、当時は、そんな出張もあったんです。でも結局採用とはならなかったんですけど。撮影が終わってさあ帰ろうとなったら、ゼネスト、国鉄(当時)が全部動かなくなってしまったのです。でも帰らないといけないから、まずレンタカーを借りて東京まで出て、東京の現像所にフィルムを持ち込んで現像を依頼して、でも泊まるところがない。簡単に宿も見つからないので、上司だった横洲さんの奥さんの実家が東京にあってそこに1泊することになりました。翌日、現像の終わったフィルムをもらってチェックして、またレンタカーで大阪まで行きました。大阪からは、その当時、グリーンフェリー(※3)という大阪と広島を結ぶフェリーがあったのでそれに乗って広島港まで帰ってきました。
当時は、ストロボとかが大きかったので機材を運ぶのも一苦労でした。若かったからこそできたことだと思います。あれは本当につらかったです。まあ楽しいこともありましたが、あの時は必死でした、よくやったと今でも思います。
(※3)グリーンフェリー:広島港と大阪南港を結ぶカーフェリーで旅客と車両を輸送していた。1982年に解散。
神崎 日本酒のCMを撮影する出張があったのですが、ロケに徳島まで行きました。何を撮影するかというと、「ウミガメが日本酒を飲む」というシーンです。ウミガメを水族館から借りてきて、砂浜でウミガメが酒を飲むようなシーンを撮影しました。ウミガメが本当に酒を飲んだかどうかはわかりませんが、口に当てたりしてそれらしいシーンを撮りました。この時は、木製の三脚が砂をかんで動かなくなったりとか大変なことがいっぱいありました。そのシーンのフィルムは残っているかどうかわかりませんが、これから整理するのならぜひ見つけてください。


雪深い秋田・角舘での撮影行。現地の人々の温かい協力があってこそのロケだったといいます。
ある会社のポスター用撮影で徳之島取材。右が横洲さん。その隣が神崎さん。「青春してるねぇ」と懐かしそうに話してくれました。
カープ初優勝が決まった、1975年10月15日、東京・後楽園球場での巨人戦、現地にカメラマンが行っているはずなのに、なぜかあまり写真が残っていません。その理由を佐竹さんに聞いてみました。
佐竹 私は現場には行っていません。別の2人が後楽 園球場に行きました。優勝の瞬間、1人は、グラウンドにおりて撮影をしようとしたそうですが、なだれこんできたファンにもまれて、まともな撮影ができなかったそうです。もう一人は、スタンドにいたんですが、歴史的な瞬間を目の当たりにして舞い上がってしまってシャッターが押せなかったらしいです。まあ若かったし、史上初の歴史的瞬間だったことを考えれば、舞い上がってもしょうがない瞬間だったでしょうからね。実際に今残っている胴上げの写真はわずか2枚、グラウンドから撮った1枚と、スタンドから撮った1枚だけです。
佐竹さんにカープの取材で一番印象に残っている写真について聞きました。
佐竹 沖縄キャンプの時、津田恒美投手がブルペンでの投球練習が終わって出てきて次の場所に走って行こうとしたときに、ずっとカメラを 構えて狙っていたんです。そしたら津田投手がカメラに向かって笑顔でVサインをしてくれたんです。ニコっと笑ってね。これはいい写真が撮れたとその場で思いました。当時は今よりも選手とカメラマンの距離が近く、いい表情の写真が狙いやすかったですね。
佐竹さんにみづま工房での仕事について聞いてみました。
佐竹 みづま工房での仕事は楽しかったよ。こんなに自由にものを考えさせてくれるところはなかったと思います。当時は特にね。もちろん仕事はしんどかったけれども、頑張ってやっていれば楽しい仕事もあります。それを楽しいと感じるかどうかの問題じゃないかと思います。これから入ってくる人達も楽しみながら頑張ってほしいです。

貴重なみづまライブラリーの初優勝胴上げ写真。これともう1カット残されているだけ。スタンドから撮影していた岡野さん(みづまカメラマン)はあまりの感動で泣き崩れていた。一方グラウンドレベルにいた横洲さんはなだれ込んできたファンに押しつぶされグラウンドに這いつくばってもがいていた、のだそうです。なんとも残念。
