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広島の街をデザインし続けた男たちが語る、

知られざる戦後広告史

板倉 勝久さん

1968
  -1982

1957
  -1971

「手描きの熱狂」から「カープ坊や」の誕生、そして未来へ。

坂本 治士さん

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板倉 勝久さん

昭和43年入社。営業・企画として、広島東洋カープやマツダなど、広島を代表する企業とみづま工房との信頼関係を築き上げたレジェンド。

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坂本 治士さん

昭和32年入社。創業初期のデザイン部門を長年牽引。看板から新聞広告まで、あらゆる「手描き」の頂点を極めた伝説的デザイナー。

黎明期のみづま工房 ―「八丁堀のガラス張り社屋」という衝撃

みづま工房が産声を上げて間もない昭和30年代初頭。事務所は現在の広島市中区、もみじ銀行本店の向かい側にありました。当時の広告業界は、今のデジタル環境からは想像もつかないほどの「完全なるアナログ」の世界でした。

坂本 僕が入社した昭和32年頃は、写植(写真植字)もまだ普及しとらんかった。新聞広告の小さい文字を一つひとつ面相筆という細い筆を使って手描きで埋めるんよ。住所も電話番号も、失敗したらポスターカラーで白く塗りつぶして、また一からやり直し。修正液もない時代じゃけ、一本の線を引くのにも命懸けよ。

その後、事務所は八丁堀へと移転。広島銀行の裏にあった社屋は、当時としては極めて斬新な「総ガラス張り」のデザインでした。

板倉 八丁堀の角地に、中が丸見えのガラス張りの事務所があって、そこに十数人のデザイナーがずらっと並んでいる。道行く人がその作業風景を見ることができた。「クリエイティブの現場を見せる」という社長の先駆的な演出だったんじゃないかな。坂本さんはそのチーフとして、ひときわ鋭い眼光を放ちながら筆を動かしよった。

グラフィックデザイナーという枠を超えた「職人」たち。コンパスや定規、そして「カラス口」と呼ばれる独特の製図ペンを駆使し、息を止めてミリ単位の線を引く。その緊張感あふれる仕事が、広島の街を彩る広告や装飾をつくりだしてきました。

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創業者・水馬義輝 ―妥協を許さぬ「烈火のアイデアマン」

みづま工房の歴史を語る上ではずせないのが、創業者・水馬義輝の存在です。座談会では、その強烈な個性と、仕事に対して一切の妥協を許さない姿勢が浮き彫りになりました。

坂本 社長は整理整頓にすごく厳しかった。絵の具を入れる皿一枚、筆一本の置き方までチェックされるんじゃけ、僕らは大変よ。そこに、道具を大事にしない者に良い仕事はできないという信念があったことに気付いたのはずっと後のこと。とにかくアイデアマンで、誰も考えつかないような角度から新しい切り口を提案してくる。それを形にするのが僕らの仕事じゃったね。

板倉 仕事に対してすごく嫉妬深い人。他の人がつくった面白い広告を目にすると、「なんでうちにできんかったんや!」と悔しがって眠れないくらい。その情熱と執着心が、みづま工房のエネルギーになったんだと思いますね。

広島では知られた文化人となっても、会社に帰るとデザイナーが余らせた絵の具を見つけては、「もう一回練ってから使え!」と厳しく言うなど、物資が乏しかった時代の精神を忘れない人という一面もありました。

「カープ坊や」誕生の真実 ―赤ヘル旋風を予感させた「少年の眼差し」

板倉 ルーツが日本初の外国人監督に就任して、どんなことが起こるんだろう!?と僕らもワクワクした気持ちでいました。ルーツ監督は大リーグにならって野球道具を球団のトラックで運搬するシステムを導入。そのトラックに描くデザインを依頼されたんです。東洋工業(現マツダ)のデザイナーも案を出しましたが、鯉をモチーフとしたリアルな絵ばかり。そこで当時若手だったイラストレーターの岡崎福雄君に、『今度カープは真っ赤なユニフォームに変わるけえ、赤いヘルメットの子どもをモチーフに描いてみたらどうや』と言ったんです。

岡崎さんが描き上げたのが、キリッとした眉毛に大きな瞳、赤いヘルメットの少年でした。これを見た球団担当者は「ええじゃないか!」と即決。「カープ坊や」誕生の瞬間です。

板倉 おもしろいのは契約の話。カープ球団からは『ロイヤリティ(使用料)契約か、デザイン料一括で買い取りか、どっちがいいんや』と問われました。当時はまだキャラクタービジネスも確立されていない時代。『そりゃあデザイン料がいいです!』と僕が言いました。もしロイヤリティ契約を選んでいたら、みづま工房は自社ビルがいくつも建つほどの大富豪になっていたでしょうね(笑)。

しかし、板倉さんの表情に後悔の色はありません。むしろ、自分たちが生み出したキャラクターが、原爆から復興した広島の象徴として愛され続けていることへの誇りが、その語り口から感じられました。

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31万人が泣いた初優勝パレード ―熱狂を支えた舞台裏の奔走

昭和50年10月15日。カープは創設26年目で悲願の初優勝を果たします。その優勝パレードを裏で支えたのも、板倉さんらみづま工房の社員たちでした。

板倉 パレードの運営は本当に大変だった。マツダのタイタン(トラック)を8台改造してオープンカーをつくったんだけど、予算が限られているなかで、選手の顔をあしらった巨大なハリボテをつくったり、装飾を工夫して、なんとか形にすることができた。優勝が決まった瞬間に祝砲の花火を打ち上げることになったけど、火薬の確保も、警察との折衝も、すべてが初めてのことだらけ。僕ら裏方の仕事は問題が山積みだったね。

苦労の末に迎えた優勝パレード当日。平和大通りは31万人もの市民であふれかえりました。

板倉 僕は先頭車両で誘導していたんだけど、とにかく沿道は人、人、人で埋め尽くされて。木に登って万歳三唱をする人や、遺影を掲げて泣きじゃくる人もいた。あれほど熱狂的で温かい光景は後にも先にも見たことはないね。広島という街がカープで一つになった。その中心に自分らの仕事があったというのは、広告屋冥利に尽きるよね。

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街に刻まれた「手描き」の魂 ―原爆ドーム保存記念碑とタウン誌

みづま工房の仕事は広告の枠を超え、広島の文化や歴史の保存にも及びました。坂本さんは、今も残る「原爆ドーム保存記念碑」の文字を手掛けた時のエピソードを語っています。

坂本 あの碑の文字は、僕が原寸大の紙に筆で書いたんよ。当時はコンピューターもないけえ、一発勝負。僕の書いた字を石材職人がハネやカスレまで手彫りで忠実に再現してくれた。60年近く経った今も、あそこに自分の字が残っとるのを見ると、広島のために仕事ができたという気がしてうれしいよね

広島初のタウン誌を手掛けたのもみづま工房でした。コピーライターが一軒ずつ取材し、デザイナーが手描きでレイアウトした『る・もんど』という冊子です。広告にとどまらず、広島の街に文化を生み、人々に活力を与えるために何ができるか。当時の社員たちは日々考え続けました。

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次世代へのメッセージ ―未来を切り拓く「工夫」と「執念

座談会の最後、二人のレジェンドは今の社員に向けて、熱いエールを送ってくれました。

坂本 今はコンピューターで何でもつくることができる。それは本当に素晴らしい進化。でも、忘れないでほしいのは『自分の手で生み出す手応え』。僕らの時代は、失敗すれば最初からやり直し。だからこそ、一本の線を引くのに全神経を集中させたし、完成した時の喜びはとてつもなく大きかった。道具が便利になっても、クリエーターの『執念』のようなものは持ち続けてほしいよね。

板倉 僕は『工夫』という言葉を大切にしてきました。予算がない、時間がない、アイデアが出ない。そんな時こそ『工夫』するんです。水馬義輝がそうであったように、常に現状を疑い、もっと面白くできないかと、もがきつづける。そして、他の人の仕事に対して『負けてたまるか』という嫉妬の心。そのエネルギーこそ、次の100年に向けての原動力になると僕は信じています。

 

2時間にわたる座談会を通じて見えてきたのは、みづま工房の80年が「広島という街への深い愛」と「クリエイティブへの異常なまでの執着」によってつくられてきたという事実です。

息を止めて引いた一本の線が、やがてカープ坊やという命を宿し、31万人の歓喜を呼び起こす熱狂へとつながりました。時代がデジタルに変わっても、根底にある「人を楽しませたい」「広島を元気にしたい」という精神は変わりません。

レジェンドたちが残したバトンは次世代の手へと委ねられました。みづま工房の挑戦は、これからも広島の街と共につづいていきます。

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