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川上 恒雄さん

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川上恒雄さん

広島にUターンしてみづま工房に就職、プランナーとしてイヤーブックの取材やイベントの企画などを担当。みづま工房退職後に朔広告制作所を立ち上げる。独立後も、イベントなどでみづま工房と一緒に仕事をする機会が多い。現在は、朔広告制作所代表取締役。

みづま工房に入社したきっかけを教えてください。

川上 大学も含めて10年弱、東京にいたのですが、子供が生まれて、このまま東京で育てるのかどうかっていうのを考えて。広島に帰ろうと思って大学の教授のところに行ったら「みづま工房とドリームベッドの2社の社長を知ってるから声をかけてあげるよ」と言われました。それなら「広告代理店をお願いします」って言って、みづま工房に入社しました。
東京では、デパートのオリジナル商品の開発の仕事をしていました。ですから商品の企画書を書く仕事はしていました。ところが水馬義輝社長が、「東京でバリバリやってたプランナーが入ってくるから」みたいなことを言っていたらしく、そんな目で見られていましたが、みづま工房に入って初めてイベントの企画書を書いたくらいの実力だったので、そういう点では苦労はしました。 

印象に残っている仕事はありますか?

川上 カープのイヤーブックの仕事をまかされました。そんなに野球は詳しくないのに、初優勝の時に大学生で、後楽園球場で優勝の瞬間を見たということ以外に何にもないのに、さらに、本を作るという行為も全く知らずに担当して、よく任されたと思います。
選手にインタビューするんですけど、山本浩二選手には怒られました。インタビューなんてしたことないしよくわからないまま質問するじゃないですか。そうすると新聞に出てるし、雑誌にも載っているような質問なので、「事前になんか読んだことあるんか、なんでそんな質問をするんだ」と怒られました。もう駄目だと落ち込んで、次の日は衣笠祥雄選手だったので、また怒られるんだろうなとインタビューに行ったら、すごい優しくて、「ああ、いいよいいよ」ってお話していただいて、そこからもう完全にファンになりました。
あとはフラワーフェスティバルですかね。あの頃は、潤沢に資金があったって感じでしたね。パレードとマツダのひろばを担当して、「全国花の女王」といって全国各地の花の女王を呼んできて、北海道のミスすずらん。水戸の梅娘。沖縄のミスハイビスカスとか7人か8人ぐらい呼んできて、それをテレビに出演させたりフラワーの会場で花車に乗せたり、ステージに登場させたりしました。
それぞれ観光協会と交渉するんですが、その当時もうフラワーフェスティバルは、結構名前が全国に知られていて、ゴールデンウィークに何十万人という人が集まるって実績があったし、初めてのことではなく引き継いでやっていたのでそれほど大変ではなかったです。

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川上さんが担当したイヤーブック(1983年版)

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印象に残っているイベントはありますか?

川上 衣笠選手の2,000本安打達成のセレモニーですかね。記録達成の時にどんなセレモニーをやるか、何回企画を出してもだめだったんですよ。どうするよっていう話になった時に、口からでまかせで。初ヒットを打った日に生まれた子供が、もう高校生になっているなと思って、それを苦し紛れに言ったら、当時の松田耕平オーナーが気に入っていただいて「それや、なんでそんなことをはよ言わんのや」と言われました。「でも実現できるかどうかわかんないんで黙ってたんです」って言ったら「それを実現するのがお前らの仕事だろう」っていう話になりました。
当時は、当然インターネットなんてありませんでしたが、クラス会名簿みたいなものがあったんです。会社に同じ学年の高校3年生がいたので、その人から名簿を借りて調べたら、その中に一人だけその日(1965年・昭和40年7月25日)に生まれた子が見つかって、どんな子か内緒で見に行って確かめて、校長先生か担任の先生にお願いをして本人に聞いてもらったら「やりましょう」ということになりました。
本人には、花束を贈呈するだけの役割ですが、あなたが贈呈することに意味があって、あなたが生まれた日に衣笠選手がプロ野球で初ヒットを打って、今あなたがこうしてここにいることが、衣笠選手が長い年月をかけて2000本安打を達成したという歴史を体現するんですといったことを話しました。
でもこれってカープのホームゲームじゃないとアウトになる話なんですよ。チャンスは3カードあって、最初は旧市民球場での試合、ダグアウトの隣に審判ルームがあって、そこにスタンバイしながら試合を見ていて、打席が近づくとその後ろに通路に待ち構えて花束渡す練習をして、ああダメだったっていうことになります。そのカードでは達成できず、今度は岡山で試合があって、ここでも達成できずまた広島に帰ってきたんです。ここで達成できないと次は遠征に行ってしまうので、このカードが最後のチャンスでした。そこで達成してくれたので大ラッキーだったんですよ。
達成と同時に祝砲があがって、くす玉がわれて横断幕が登場し、高校3年生の女の子が花束を渡す、そういうセレモニーでした。この時、お祝いの花火を上げたり、観客には、歴史的瞬間を見届けたということで観戦証明書を渡しました。

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衣笠選手2000本安打達成のセレモニーの進行表

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衣笠選手2000本安打を特集した雑誌「る・もんど」

大変な失敗も経験されたそうですね。

川上 1983年の旧市民球場で行われたオールスター第3戦の開会セレモニーを担当した時です。
その年の4月に東京ディズニーランドが開業したので、どうしてもミッキーマウスを始球式に呼んできたくて、オリエンタルランドっていう管理会社に要請したら、けんもほろろで 「ミッキーはディズニーランドという世界にだけに存在してる生き物なんで出すわけにはいきません」って断られて。でもカリフォルニアで大リーグのオールスターに出てたんですよ。それを記事で見つけたんで、そのことを言って再交渉したら、向こうも「えっ」っていうことになって調べてくれたら、「そうですね」っていうことになって。「じゃあ、出しましょう」となりました。
東京ディズニーランドのアンバサダーとミッキーマウスとミニーマウスがオープンカーに乗ってセンターから入ってきて、ミッキーマウスとミニーマウスで始球式をするっていう演出にしました。グラウンドでは、山陽高校のバトン部の生徒たちがセンターから紐に取り付けられた大量の風船を持ち込んで、扇状に広がる。ミッキーマウスとミニーマウスが持っていた風船を放すと、紐についたカッターが全部風船を切って一斉に飛んでいくはずでした。しかしその日は、めちゃめちゃ熱くて、風船の中に水滴がいっぱいついてて、半分くらいしか飛ばなかったんです。でも、テレビ局からは、絶対に時間厳守と言われているから試合開始時間を遅らせることもできません。オンタイムですよって言われてたのにとんでもないトラブルが起きて「ああ、俺の人生終わったな」思いました。そうしたらセンターのゲートのところにいたバトン部の顧問の山岡先生がお話があると連絡がきた。絶対怒られるんだと思って、今は勘弁してよ思って出たら「川上さん、うちの女の子たち入れましょう」って言ってくれたんです。「ああその手があった」と思ってお願いしたら、バトン部の生徒たちが、外野フェンス近くに残っていた風船をひとつ残らず外野スタンドに投げ込んでくれて、子供たちが歓声を上げて喜んでくれて、本当に何十秒かの間に全部なくなってそのあと部員は、さーっと帰っていって。あたかもそれを最初の演出かのごとく、きれいにリカバリーしていただいきました。
松田耕平オーナーは、テレビで見ていたので、半分くらい飛んでいった風船をみてトラブルには気づかれなかったんですが、現場にいた松田元オーナー代行はすべてを見ていたわけですから、全部終わって報告に行
ったら、「そんだけ真っ赤に日焼けしとったら文句はよう言わんわ」と許していただきました。真夏に朝からずっと準備をやってきていたので、本当に真っ赤に日焼けしていたんですよ。

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オールスター(1983年)

川上さんは、そのあとみづま工房を退職されて、今の会社をはじめられたんですよね。

川上 みづま工房にいたのはわずか2年で、そのあとどうしてもやりたいことがあって先輩たちと一緒に会社を興しました。2年という短い期間でしたが、何もわからない世界に飛び込んで仕事をやるとなった時に、とにかく誰よりも早く現場に入って、最後まで面倒見て帰ろうと思って、音響さんとか施工屋さんなんかの仕事をずっと見て、 そういう意味で育ててもらった意識が強いです。 
それこそ、ホテルの会場にステージ組むときに、仮組みするところまで作業が進んだ後に、ホテルの扉が内開きの扉で開かなくなることに気づいて、ものすごく怒られたことがありました。そのとき、下見が必要っていうのはそういうことなんだと思いました。そういういろんなことをいっぱい学びました。
そのあとも出入り禁止になってもおかしくないのに。結構、みづま工房の仕事を受けさせてもらっていて、みづま工房と一緒にやる仕事に対する思いは強いです。だからみづま工房のスタッフが中途半端なことをすると、今でもものすごく腹が立つ。そういう思いがあるんで。みづま工房時代の経験は、宝物のようなものだっていうのが根っこにあります。

川上さんがみづま工房から得た一番の財産は何ですか?

川上 人材でしょう。人の繋がりでしょう。よく言うのは、我々は別に優れてなくてもいいんです。我々がどれだけ優れた人を知っているかということだけが勝てるんですよ。いろんな仕事を受けたら、この案件の時には こことこことここを組み合わせて作ったらきっと成功するよっていう、同じ音響でもネットワークに強いところとか、大型イベントなんかの屋外に強いところとかいろいろあるのでその仕分けみたいな、事業仕分けをできるかできないかが我々の能力になるのだと思います。 あとはもうプロなんで、皆さんに任せてこんな感じにやりたいよ、予算こんだけなんだけどやってくれるって言えば、大抵みんな形にしてくれるので、そこは違うでしょっていうことは、ほぼほぼないんですよ。というか、やってくれる人としか付き合わないんでね。そういう意味で、我々がどんだけ信頼できる人を抱えているかというところが大事で「お任せください。この案件に関してもう腕っこきを集めますよ」って言える時と言えない時があるじゃないですか。そういうところですよね。 
我々が秀でている必要って全然ないんです。ただ、我々の周りにどんだけ秀でている人間がいるかというところが我々の能力なんで。 「じゃあこの仕事でね、お願いしますよ」って言った時に「いいよ、やるよ」って言ってくれるか「いや、ちょっとそりゃないでしょ」って言われるかそれは日頃の付き合いだと思いますね。

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