すごいコミカルなことがいっぱいありました。
まるで漫画のような人たちでしたね。
いっぱいいっぱい悔しくって、いっぱいいっぱい泣いた。
だけど宝石箱のような3年間でした。
1989
-1993
野村 妙子さん
所属:営業部

1989

-1993
野村 妙子さん
春風のようにみづま工房に新風を巻き起こし、また春風のようにあっ気なくみづまを去っていった野村妙子さん。そんな短い時間ながら、気づけばみづま史上初の女性営業担当として七転び八起きの活躍。貴重な青春時代に在籍した、愛すべき変な会社での時間を振り返ってもらった。
現在、社会福祉法人燈心会理事長。
みづま工房に入社されたのはいつ?
野村 え~っ(笑)。平成元年ですから1989年。わたしの祖父が織田(おりた)さん(当時の営業課長)を知っていて話をしてくれたみたいなんです。で、会社訪問をして、最初にお会いしたのは折山(おりやま)さん(当時のクリエイティブ次長)です。でも配属になったのは営業部でした。みづまでは初めての女性営業担当だったんですね。そういうこともあってみんな扱いに困ってたみたいです(笑)。ホントに。どう接していいのかわからない、って、ちょっと腫れ物に触るような感じで。

いろんなことがここで起こ りました。みづま工房上幟町本社。
初めての職場。当時のみづま工房はいかがでしたか?
野村 みづま工房の人たち、例えばクリエイティブの人たちって、女の人ですら全然タイプが違うじゃないですか。わたしと同期で入社したのはたぶん10人くらいいたと思うんですけど、一番覚えてるのが神ちゃん(デザイナー)。神ちゃんも個性的でしたし、とにかく今まで会ったことがないようなタイプの人たちばかりだったので、すごいびっくりしました。なんだか、違う世界に来たような、これからどうなるんだろう、という感じでしたね。
当時、仲が良かった社員とかは?
野村 同期では、神ちゃんと仲良かったですね。というかほかの人のことはあまり覚えてないんです。あと、松本くん(コピーライター)ね。たぶん弟分のように思ってたんだと思います。いま何してるんだろう。いまもっとも会いたい一人ですね。当時桜井さんが言ってたのが、わたしが松本くんのことを「マツーっ」って呼んでたじゃないですか。それを桜井さんが「お前!松本も人間なんだぞ。そんな犬みたいに呼ぶな」って。
あまり緊張感はなかった?
野村 そんなことはないです。本当に小学校以来でしたからね、男性が隣の席っていうのが。まずそこにすごくびっくりしたのがひとつ。あとは「野村ぁ!」って呼び捨てにされるじゃないですか。それがびっくりしたことの二つ目。最初は嫌だった、っていうか、すごく怖かったんです(笑)。でもだんだん慣れてきて、そのうち自分のことを「野村は」って言ってたり。人から、なんで自分のことを野村って言うんだと聞かれて、「わたしもわかんないですけど、みんなが野村と言うから野村って言うんです」って答えたのを覚えてます。あと、これは社会人1年目なら、わたしだけじゃないかもわかりませんが、電話の外線を取るのが怖かったですね。
「外線取るのが怖かった」に関連しては、当時みづまには驚くほど社員教育がなかったですよね。
野村 なかったですね。最初から、とにかくついていけ、みたいな感じで。ついていく中でいろいろ教えてもらってた、という感じでしたね。基本的に、ソーシャルスキルっていうところは全く教えてもらわなかったかな? まぁ、当時は社会全体がそんなもんだったのかもしれないですけどね。当時の上司は、織田さん。個人的にはすごく成末(なるすえ)さん(当時営業課長)が苦手で。成末さんはハンサムじゃないですか。男性的だったんだと思うんですよね。で、そういうのが若い女性のわたしとして嫌だったんだと思うんですよ。逆に織田さんはすっごい好きだったんです。いま思うと安全だと思ってたのかも知れないですけど(笑)。自分なりにちょっと(成末さんには)構えるところがあったんですかね。成末さんはスタイリッシュなところもあって、そういうところもちょっと苦手だったんですね。でも、成末さんは今思うと、いろいろな形でしっかりわたしに対して教えてくださってたし、配慮してくださってたんだと思います。一方の織田さんは、最初わたしのことがすごく嫌だったんだと思うんです。というかどうしていいのか分からなかったんだと思うんですよ。すごい覚えてるのが、当時「海と島の博覧会」がありましたね。で、その海島博の事務所に行くことがあって、おそらく他に仕事がなかったんですよ。事務所の近くの駐車場に車を止めたんですね。そしたらその事務所の川を挟んで向こう側が観音の飛行場だったんです。わたしと織田さんは、そこに飛行機が飛んだり着陸したりするのを延々と見てました。昔は仕事にうんと余裕があったんですね。今だったら定時っていうものがあって、定時を超えて残業したら残業代を払わないといけなくなる、というのが基本ルールじゃないですか。あの頃は労基法とかあんまり関係なく仕事をしてましたよね。
当初は苦労もあったんだと思いますが、同時代にいた印象としては楽しそうにしてらっしゃった印象です。
野村 楽しかった。すごい、楽しかったです(笑)。動物園みたいに。見たことも聞いたこともないような人たちがたくさんいて、会社に行くのが嫌ではなかった。何だろう? 最初の頃は、ぼーっとしてたんですよ。結局誰かが声をかけてくれないと、どこにも行けない人だったので、誰からも声がかからずにいるとちょっとぼーっとしてたんです。ある時、柳原さん(営業)だったと思うんですけど「お前バカか!?何してるんだ」って急に怒ってきて「行くで」って言うんです。どこに行くんだろうと思ったら、社用車に武田さん、桜井さん(共に営業)がもう乗ってて、そこに私が乗るとすごい勢いで出るんですよ。ガーって。「何があるんですか」って聞いたら、「社長が来るんだよ」って。要するに営業マンが外にも出ず事務所にいるっていうところを見つかったら、大目玉を喰らうから、とにかく出よう!みたいな。営業部のなかでは、織田、柳原、武田、桜井というところが仲良しだったから、そこに入りたかった。だからついていくのに必死でした。そんなふうにして、どうにか皆さんが可愛がってくださって、それで織田さんもなんとなく可愛がってくださってたんだと思います。

その営業部のボスが尾上さん(当時営業部長)でした。
野村 尾上さんも個性的な方だったじゃないですか。思い出したんですが、わたしは尾上さんにある時罵倒されるっていうことがありました。みんなの前で。それはわたしの売り上げが上がってなかったんだと思うんですけど、「お前は!怠けて食っちゃ寝、食っちゃ寝ばっかりしやがって、どうなるか分かっとるんか」ってすごい剣幕でみんなの前で言うんですよ。すっごい腹が立って、「牛になるー!」って叫んで、走って逃げたんですね。そしたら、後を柳原さんが追いかけてきて「野村!」って握手を求めてくるんです。「サインくれ!」って。そういうすごいコミカルなことがいっぱいありましたね。個人的に尾上さんがどうのこうのというのは全然なくてだから、まるで漫画のような人たちでしたね。
あははは。いや~思い出します。当時を! そんな感じ、もうハチャメチャな時代でしたよね。そして、そんな中で起きたのがあの事故でした。
野村 これも、福田さん(福田取締役)から、その真相をぜひ話してくれといわれてるんですけど・・・。わたしが媒体担当になったのでデミオ(社用車)を使っていいということになって、当時ルンルンで運転してたんですね。で、(本社があった)上幟町のところって車を出しにくかったですよね。お尻からバックで出て、狭い2車線なんですけど、いきなりブブーってクラクション鳴らされたんです。すっごいびっくりして、「どけっ」て意味だと思ったんですね。すっごいあわてて前に出たら、電車が来てたんです。「ガガガガガーって」。すぐ下がって、どうしよう?まず謝ろうと、電車にのって「すいませんでしたぁー」って叫んだんですね。そしたら車内は“シーン”。まずい!と動転するばかり。とりあえず会社の狭い階段をバーっと駆け上がると堀田部長(総務)がいらっしゃって、「あのぉ車をぶつけました。電車に」って言ったら「バカもん!」って。そっから覚えてないんです。

とにかく、「野村妙子がチンチン電車とケンカした!」っての がすぐ会社の中でニュースになりましたもん。ある種の武勇伝ですよね。
野村 その事件に関しては、なぜかお説教された記憶が一切ないんですね。始末書とかも書いた記憶がない。ただ、その後中国新聞行くのも、RCC行くのも、ホームテレビ行くのも、すべて自転車。このぐらいの短いスカートでパンプス履いた格好で、大きな原稿袋抱えて自転車に乗ってましたから。「わたしはずっと車輪の上じゃ」って言ってたんです。ヘッセの「車輪の下」が大好きだったので・・・。そしたらまた堀田さんが「バカモン! 誰のせいじゃ思うとるんじゃあ」って。
いまとなっては懐かしいですね。
野村 懐かしいですね。でもいまでも運転はあまり好きじゃないです。みづま入った当初は運転できなかったんです。免許は持ってたんですけどね。怖かった。だけど、ある時、織田さんが「行け」って言うんです。「とにかく行け」と。それまでだったら誰かが「連れてってやる」とか言ってくれてたんですけど、その時は誰も言わなくて、見放した感じ行け、と。もう半泣きで、はじめて車を運転しました。当時マニュアルでしょ。本当に半泣きで出かけていった記憶があるんですけど。でもやっぱりああいうのって必要だなって思います。当時はそれが社員教育と言えばそうで。特に織田さんはそういうところのタイミングの見方が上手な方だったんだなと思いますね。
いろいろ助けていただきました。ある時、クライアントに怒られて、ロッカーでずっとベソベソ泣いてたんです。すると織田さんが寄ってきて、「これ、わしゃ行かんけ、お前にやるの」って言って福屋の名画座のチケットをくれたんです。チケットは結局使わずに持ってました。嬉しかったんですね。きっと、育てるのは上手な方だったんだと思います。可愛がっていただきました。初めて社会に出て知った大人じゃないですか。それが織田さんで良かったなっていう風に思ってます。すごく精錬潔白というかあったかい人であり、可愛らしい方でしたね。

多くの社員にとって青春そのものだった上幟町社屋の解体寸前の姿。
いま思うとホント愛すべきみづまの人たちって感じですね。
野村 もうひとつ、織田さんのことでいうと、ある時、クリエイティブの方と取っ組み合いのけんかをしたんです。殴り合いではないですよ、お相撲みたいに組み合って。すっごいびっくりして、大人の喧嘩なんて初めて見たもんですから、そこでもちょっと泣きそうになったんです。その後何か月か経って織田さんがこう言ってるんです。「あんときゃ、わしも負けちゃいけん思うて押し返したんじゃが、やっぱりあいつもが若いけ、押し戻されたよのぉ」って笑いながら話してらっしゃったんですね。けっして大嫌いで喧嘩したのではなくて、愛情のこもった鍔迫り合いだったんだな、とわかりました。ずっと女子校で育って、世間を知らない中で、いろいろな大人がいて、いろんな考えの人がいて、学ぶことがたくさんありましたね。楽しかったです。
水馬義輝社長のことはどう見てましたか?
野村 もう雲の上の人みたいな感じですね。「社長はすごい人」というのはよく言われてて、実際すごい人なんですけど、全然自分とは関わりのない世界の人だと思ってました。結構すごい距離感がありました。実際にご一緒することもあまりなかったです。聞いた話ですけど、川杉さん(当時常務。その後みづま工房3代目社長)がある時義輝社長にすごく怒られて「その髭を剃れ!」って言われて、実際に剃ったらしいんですね。わたしたちにとっては「ヒゲの川杉」のイメージが焼き付いてましたよね。だから社長の命令は絶対なんだって、それを聞いて怖かったです。
わたしは川杉さんにも可愛がっていただいて、川杉さんの勧めでみづまを辞めてからでしたけどJC(広島青年会議所)にも入れていただいたんですね。JCでは水馬義輝~川杉さんという流れがあって、川杉さんが社長のことをいつも褒めてらっしゃいました。「社長はここがすごいんだ」とか「あれをやったのは社長なんだ」とかね。すごく水馬義輝さんのことを尊敬してらっしゃったと思います。わたしはそのことを川杉さんを通じて聞いてた。だからなおさら雲上人なんです。

結局、みづま工房をお辞めになったのはいつだったですか?
野村 1993年。とても濃い3年間でした。当時自分の中では、25歳を過ぎて会社にいちゃいけないっていう感覚があったんですね。2年目に入る時に、柳原さんだったか、桜井さんだったか、はっきりは覚えてないんですけど、「4月になったらまた新しい子が来る。そうしたらみんなその娘たちに夢中になる。お前のことを可愛いと思うやつはおらん」。要するに「図に乗るな」っていうことが言いたかったんだと思うんですけど。「みんながお前のことチヤホヤをして、お前は図に乗っとる」。それは決して意地悪で言ったのではなく、私のことを思って言ってくれたんだというのがわかるんです。あぁそうなんだ、会社って若い子しかいちゃいけないんだ、という感覚があったんですね。ほかの広告代理店もやっぱりそんな感じで、例えばデザイナーだったら腕があるじゃないですか。だけど、営業っていうのはイメージとして、あんまり長居すべきじゃないっていう感覚が自分の中にあったのかなと思いますね。
あとは、当時私の大好きな人たちが次々と辞めて行ったんですよね。まず武田さんが辞めて、桜井さんが辞めて、柳原さんが辞めて・・・。ちょうど上幟町が閉鎖になって、祇園に会社が移転して・・・。

その後、外から客観的にみづま工房を見ら れてきたと思います。どんなふうに見ていましたか?
野村 私はいま会社経営する立場にいるんですけど、まず考えるのが「社内融和」なんですね。外から入ってきてくれた人たちが、どうオンボードしてくれるかっていうところは常に考えています。
すごく不思議なんですけど、たった3年なのに、今でもすごくみづまに愛着があるんです。そこに所属していた、という意識がすごくあります。もちろん最初の会社だったっていうこともあると思うんですけど、懐かしいし、いいものがたくさん詰まった宝石箱のような思い出がたくさんあります。どうやったら、あんな帰属意識を持てるんだろうって、今となっては思いますよね。今、自分の組織であれと同じようなことをできるとは思えないので。そういう意味では、ちょっと変な会社だったけれども、すごく特徴もあるんですよ。忘れがたい、というところがある会社だったと思いますね。
逆にダメなところは?(笑)
野村 すごい才能のある人たちがたくさん集まる場所だったと思うんです。「みづま学校」とも言われたり。みづまを卒業した後も、すごい活躍してらっしゃる方がたくさんいて。それは仕方がないと思うんだけれども、たぶん柳原さんだったと思うんですけど、「少し前のみづまは一番勢いがあって、福山支店でも出そうかという時期もあった。もし卒業する人が一人でも二人でも留まれたら、本当はもっと大きな会社になっていたかも知れない」と。みづまイズムっていうものが、もっと大きく広がって行ったかもしれないと。そこが、水馬義輝という人間力からすると、少し残念かなと。もっといろんな可能性があったのに、もったいないですよね。でもそれも含めて水馬義輝さんなんだろうなとは思います。やっぱりみづまが好きで辞めて行った人もたくさんいたんだろうと。そういう人たちが去らざるを得なかったところが問題点かな。
おかげさまで、いまではみづま工房にも若い女性の営業マンが随分増えています。ぜひ後輩たちにエールをいただきたいですね。
野村 わたしの時って、男女雇用機会均等法が定まって間もない頃(1986年施行)。当時はまだ先輩にすべきワーキングウーマンっていなかったんです。その当時の働いてる女性って、教員か看護師さんか、もしくは美容師さん。まだまだ一般の会社で働きながら育児をするとか、結婚生活を送るっていう感覚がなかったし、そんなモデルとなる人も当時いなかったわけです。もしいたとしたら、その人は男性の3倍は努力していたと思うんですよね。とてもそんなことは自分にはできなかったし、自分がずっとこの会社で働いて生きれるとは思ってなかったですし、働いていいとも思ってなかったです。そんな感覚がみづま工房を退職したところのベースにはあったと思うんですね。でも今は全然違ってて、様々なモデルがいます。本当に女性が社会の中で働ける環境が整ってきたと思うんですよね。ただ情報がありすぎて、ついつい自分を見失いがちになるんだと思うんです。けれども自分らしさを失わず、しなやかにいろいろな環境に溶け込みつつ、自分らしい生き方をみづま工房という会社の中で見つけていただけたらという風に思いますね。いろんな人と出会うことができると思うんです。自分を大切にしながら、いろんなモデルを探して、探求していっていただけたらと思います。
いろんな方のお話が出てきましたが、最後に福田取締役との思いで話はどうでしょう? 今回この場をセッティングいただきましたし。
野村 ひとつ、すごい覚えてることがあって、局の方お二人が福田さんとわたしをお食事に連れて行ってくれることになって、ワインの名前がついた、結構高級なお店だったんですね。おひとりは管理職で上のお立場の人で、私はもうカチンカチンです。福田さんがいてくれてましたからすごく安心してたんですけど、その時に生ハムメロンが出たんです。で、わたしは生ハムだけを食べたんですね。そうしたらその方が「君は物を知らないね。これは一緒に食べるから美味しいんだ」って。本当に世間知らずだねっていう感じで笑われたんですよ。すっごく恥ずかしくって、もう何も言えなかったんですね。そしたらその片っぽの方が「美味しければいいんだよ」って。その時にすごい嬉しかったんですけど、その後で福田さんに、「せっかくあんなに高級なところに連れて行ってもらったのに、すごく申し訳ないような気持ちがする」っていう話をしたんですね。そしたら福田さんが「何言ってるの。若い娘を2人連れていい格好できてるんだから、そんなことは思わなくていいのよ」って言ったんです。すっごいびっくりして。あぁ、そういう風に考えるんだと思って、勉強になりました(笑)。
福田さんは、結婚して子供育てて、やがて管理職になって、っていう今だったら比較的当たり前に見えるけれど、彼女があそこまでたどり着いた過程は決して簡単ではなく、彼女がキャリアをスタートさせた時は決してそうではなかったわけです。その中で彼女がたどり着いてる今だけを見て彼女を評価するんではなくって、本当に彼女も 3 倍も 4 倍も努力してここまで来てる人だということを見て欲しいと思いますね。
