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岡田 晋輔さん

元中国新聞記者

それはもうプレイボーイの極地ですよ。

この人は、水馬義輝という人は、

当時としては頭抜けとったと思いますね。

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岡田 晋輔さん

昭和11年東京生まれ。昭和20年3月、9歳の時に母親の里・広島に。その後の東京大空襲は免れたが、8月6日に南観音の自宅で被爆。「一瞬気を失い気が付いたら卓袱台の上に立っていた」という。そのまま広島での暮らしが続き、昭和33年中国新聞社に入社。現在 中国新聞社顧問。

みづま工房の書庫にある赤い布貼りの上製本、『社長さん ひろしま経済 人と歩み』(中国新聞社発行)。昭和49年発刊の古い本だがけっこう仕事では参考にさせていただいた。松田耕平さん追想録、住田株式会社100周年、中村角株式会社・・・。戦後の復興や高度成長期の広島を知る上でも欠かせない参考本である。そうそうたる企業リーダーが連なる中に、みづま工房の創業者水馬義輝もあった。当時この『社長さん』企画を担当し、水馬社長を取材、その後長くお付き合いされたという元中国新聞記者 岡田晋輔さんにお話を聞いた。

冒頭「ちょっと見ただけではえたいの知れない人である。細かい幾何学模様のシャツに紫のネクタイをしめ…」とあります。おしゃれな人だったんですか?

岡田 色彩のセンスがあったからね。それはおしゃれはおしゃれなんですけど、わざと目立っとるわけですよ。要するに広告屋だから、自らを広告・宣伝しとるわけです。そういう意識がすごく強い人。動く広告塔みたいな感じで。(ご自身の首元を示しながら)このネクタイも彼にもらったものでね。広島県の使節団としてブラジルを訪問した時のお土産にくれたんです。だけど恥ずかしくて、普段はこれを着けて歩く勇気はないんですよ(笑)。

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岡田さん取材時に着ていたのと同じシャツを着る水馬義輝。お気に入りだった?

そうそうたるメンバーのなかに義輝さん。どういった経緯でリストアップされたんですか?

岡田 広告会社といまは言えるけど、当時みづま工房に対する一般社会の認識と言えば、せいぜい「看板屋」でしかないんよね。「看板描いとるみづま」というくらいの認識ね。ただ実際に付き合ってみるとしっかりした人。本人はすごく努力をしとられましたよね。JC入ったりね。JCでは非常に世話をしとられました。よく働いて、人脈づくりをされていた。広島の経済界ではそれなりに存在感があったから(取材対象として)候補にあがった。必然だったと思います。だけど、財界の中では一番下に見られていたようですね。「しょせん看板屋」。そんな固定観念があった時代。地域社会というのはそんなもんです。その後、「広告」というものの地位があがりましたけどね。

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水馬義輝(みづま工房社長)の記事。岡田晋輔さんが取材・原稿を担当された。

この時の取材で初めて水馬義輝に会われたんですか?

岡田 いえいえ、最初にどこでお会いしたのかははっきり覚えていませんが、水馬義輝という人物を最初に見込んだ出来事は、まだ中国新聞社が旧社屋だった時代(現在の三越百貨店のところに社屋があった)。水馬さんに新聞のコラムをお願いしたことがあったんですよ。経済人に一週間に一度、ひと月4回のコラムを書いてもらう企画でした。それを水馬さんにお願いしたわけです。何回目かの時、前日になってもその原稿が届かない。本人をさがしてもどこにも見つからない。「困ったのお」印刷への締め切りも近づくし、ドキドキしていたら、ふいと本人が会社に来られて、玄関近くの応接のところでデンと腰を下ろし「ここで書く!」といって書き始められました。わたしはその原稿用紙を1枚出来上がるごとに校閲に持って行くわけです。何が書いてあるのか読む暇もありません。とにかく酒の臭いをプンプンさせながら書かれた、それがものすごく印象に残っています。だけど、上がってきたものを見るときっちりした文章になっとるわけです。とにかくびっくりしたのが、前の日、おそらく遅くまで酒を飲んで、もしかしたら徹夜だったかもしれない。そんななかでもしっかりした文章を即興に近いカタチで書かれた。わたしだったらよう書かんですよ(笑)。この時思ったのが「この人はよく物事を見ている人だな」ということ。それ以来お付き合いをさせていただくようになりました。

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中国新聞社上流川町時代の社屋

岡田さんご自身のことをお聞きしていいですか?

岡田 『社長さん』の連載は昭和47年で、確かわたしが38歳くらい。中国新聞には33年の入社ですから入社して15年くらい経ったころの仕事です。この企画の前、昭和40年、41年くらいのときに『中国山地』という企画を担当しまして、それがかなり勉強になりました。そのあとの企画だったんですね。『中国山地』はそこに暮らす人々をずっと追っかけて取材して歩く内容だったんです。「人」を中心にしていろんなことを取材して回りました。その次に担当したのがこの『社長さん』でした。これは夕刊でしたから割と気軽に書きました。でも力は入っていましたよ。それは当時の中国新聞社の社内の雰囲気に依るところが大きいんです。わたしは中国新聞に入ってからずっと経済部だったんですね。当時の社内の雰囲気というと警察回りを中心に社会部中心主義。経済部というのは「新聞記者じゃない」というわけです。まだまだ経済成長が始まったばかり、経済部というのは「企業の提灯持ちじゃ、新聞社がそっちのことに力を入れる必要がない」というのが新聞社の思想だったんですね。だからこの「社長さん」の企画も本誌(朝刊)に出してもおかしくない企画だったと思うんですけど、夕刊でいいと押し込められたんですね。当時は経済面がなかった時代。紙数も少ないし、朝日(新聞)といえども経済面はなかったんですよ。「経済を重要視しないと、これからは立ち遅れますよ」と局長にもよく話していた。たとえばマツダ(当時東洋工業)の記事を書いても「これは一社だけの記事か? 広告とれるんか?」などと言われる始末でした。

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『社長さん ひろしま経済 人と歩み』(昭和49年1月20日 中国新聞社発行)

中国新聞夕刊に昭和47年10月2日から続編と合わせ140回にもわたり連載されたものを1冊にまとめた。

義輝さんの話に戻ります。この記事の中で本人のことを「たとえば『プレイボーイ』だという神話。」とも書かれています。

岡田 ある日、奥さんが水馬さんが彼女といっしょにいるところに押しかけて来たそうです。水馬さんは、あわてて屋根伝いに靴をもって裸足で逃げた、という有名な話もあるくらい。それはもうプレイボーイの極致ですよ(笑)。僕も実際に見たわけではなくまた聞きですから、神話なんです。

一方で、怖い人でもありました。今でいうパワハラですよ。そういう時代でもありましたけど、そのいい緩衝材になっていたのが川杉さん(川杉浩一、みづま工房第3代社長)ですよ。川杉さんがいろんな激しいできごとを受け止めていたと思います。

文才、画才、いろんな才能をお持ちの方でしたよね。

岡田 文才というのは確かにそうだろうと思うけど。画才というのは、わたしの見立てでは、どこか気弱になってるというか、ちょっと弱みがある、と思いますね。それは、絵のことだけでなく、いろんな面で、普段はいろいろと強気なことを言ってるけど、じつは弱みをもっているようなところもありましたね。

才能がある一方で、奇人変人にも思われていたようです。

岡田 そう。そこまでじゃないかもわからないけど、理解はしてもらえなかったんだろうなと思います。だけど、ちょろちょろよく働くから便利な人間じゃあある、と。そういう印象はみんな持っていたと思いますよ。水馬さんの性格といえば、どこへでも首を出して、どこへでもひっつく。そんな主義の人だったから、どこへ現れても不可思議じゃない、というところはありましたね。どんな人とでも、会った人は誰とでも対応ができる、そんな人ですよ。

強気な一方でシャイなところもある。いやシャイというか、多分にコンプレックスがあった。それは、わたしだからわかることじゃないかと思います。わたしは広島の人間じゃないから。冷静にみることができる。水馬さんのような人が、浮いているな、というのがわかる。田舎者というコンプレックス。そんな背景の中で、「しょせん看板屋が」という見方が周囲にもあった。

東京なら水馬さんのような人は普通の人ですよ。ところが広島だと、まだまだ田舎だからね、目立つというか。屈折した気持で言えば、自分のことをもうちょっと評価してもらえるようなところへ行きたいというのはあったかも知れないですね。評価されなかったというとちょっと問題もあるかも知れないけど、要するに、広島という地域がそうだった。田舎いうところは大体そうですよ。

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中国新聞にはしばしば取材を受けた。

よく「東京に負けるな」ということをおっしゃっていました。

岡田 うち(中国新聞社)のコマーシャルを作ったことがあって、各社からプレゼンを受けたんですね。もちろんみづま工房もいたわけ。ざっと並べて役員とかに見てもらうんです。わたしが企画室長じゃったから、「みづまさんのどうです」と勧めても「う~ん」ってはっきりしない。そのうちわたしも面倒臭くなってきて「電通の」というと、たいてい「うん」という。どういうことかというと、みんなわかっちゃおらんわけです。「どれがええか」なんてね。わたしは不本意ながら、「そんなら電通に任せんさいや」となる。あんなもんですよ。みんな理解ができん、というかそこまで明確じゃないにしても、なんとなくみづま工房に拒否反応がある。あたりはずれがあったとしても電通だから仕方ないか、となる。そういう意味では、みづま工房という存在はローカルでは珍しいんです。この人は、水馬義輝という人は、当時としては頭抜けとったと思いますね。

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若き日の水馬義輝。

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