
1961
-2014
森藤 克彦さん
所属:製作部


1961-

-2014
森藤 克彦さん
中学卒業と同時にみづま工房に入社。最初は看板や横断幕の製作がメイン。その後は、美術館や平和記念資料館、各地の歴史館の企画、デザイン、施工に関わり、バブル期には、県内の博物館・資料館の仕事を数多く手がけた。取締役も務め、半世紀以上(53年間)みづま工房に勤務した。
入社してからはどんな仕事を されていましたか?
森藤 製作の仕事でした。主に看板製作ですね。初めての仕事は広電バスのバス停の塗装。2か月間、木組みのバス停の塗装をひたすらやっていました。この過程でハケの持ち方や塗り方をカラダで覚えて行ったと思います。当時はすべて手書きですから、大きな看板を書くときは、まずマス目を書いて、それに合わせて木炭で新聞の文字を手書きして先輩に見てもらい、OKだったら塗り込みに入るという工程。小さい文字はマスに合わせて直接手書きをし、大きな文字は定規などを使ってある程度見当をつける「アタリ」をとってから書いてました。そのため新聞の見出しを見てレタリングの練習をしたり、懸垂幕や看板を木炭で下書きしたり、基礎的なことを繰り返しやっていた時期ですね。

写真は昭和34年当時のバス停(真ん中が広電バスのもの)
当時、本社は上幟町にありました。
森藤 わたしがみづまに入る前の本社は、いまの広島マツダビルの隣、相生通りの幟町にありました。昭和30年代になって本社は上幟町に移転し、その後長くみづまの拠点となります。特に記憶に残っているのが、八丁堀にあった総ガラス張りの社屋で、ここはグラフィックやその営業担当の職場です。社長の奥さんの水馬道子さんが私費でモデルを雇って絵画教室(みづま美術研究所)を開いていました。モデルが裸婦のこともあって社員の中で見学に行く人もいて話題になったのでよく覚えています。その頃には社内で作品コンクールをやって賞を与えるという取り組みもありました。
当時、上幟町の本社裏に寮があって、縮景園がすぐそば。徹夜の仕事なんかがあると、縮景園の中を横切って京橋川に飛び込んで風呂代わりに体を洗って帰ってくることがあったりと、のどかな時代でした。縮景園の警備員に見つかって、竹刀を持って追いかけられたこともありました(笑)。
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昭和30年、上幟町のみづま工房本社社屋
当時のみづま工房の編成
■総務部
■営業部(広告営業・製作営業)
■グラフィック部(企画・写真)
■製作部(木工・電気・建飾)
その頃、会社はあちこちに作業場を持っていたとか?
森藤 グラフィックの連中がいた八丁堀でしょ。それから五日市ね。ここは鉄工関係の製作部があり、わたしも通っていました。国道2号、いまの宮島街道に面していて、現在の佐伯区役所よりもさらに西に位置していました。もうひとつ、木工関係の作業場として横川にも工場ができました。昭和42年(1967年)になって五日市と横川を統合するかっこうで、いまも覚えてらっしゃる方が多いと思いますが、祇園に製作スタジオができました。「2S」と呼んでいましたね。平成5年にはこの祇園に3階建ての建物をつくり、上幟町の本社を呼びよせて、2001年に大手町に移転するまでみづま工房の拠点となるわけです。

昭和38年、八丁堀に合ったグラフィック部門の作業所。
いろいろと話題となった仕事も多かったと聞きます。
森藤 当時印象深い仕事といえば、昭和36(1961)年にハワイのホノルルで「ハワイ広島展」が開催されることになり、そのために嚴島神社の大鳥居の模型を作ることになり、わたしは塗装を担当しました。鳥居全体をベンガラ塗りし、カラー写真をもとにその上から水性塗料を重ね塗りしたんですね。3分の1サイズとはいえ、とても大きく迫力がある、とても手ごたえのある仕事でした。
あと福屋の隣、東洋座の屋上に取り付けたサントリーの巨大な樽型広告塔も当時のみづま工房らしさのある仕事でした。デザインや設計は社内でやって、製作は外注。あと管理はうちでやっていましたね。わたしとしては直接設計や製作に関わったわけではなく、中の蛍光管の掃除をしたことくらいですが、蛍光管一つひとつをきれいに磨いていく作業でしたが、その数が滅茶苦茶多くて本当に大変でした。これも全国的に話題になったひとつです。

森藤さんにとって、創業者の水馬義輝社長 はどんな人でしたか?
森藤 自分が仲人をしてもらった最後の社員にあたります。翌年には奥さんが亡くなられましたからね。実は結婚しようとしたとき、全然お金がなくて、絵がうまかった兄と2人で映画の看板を書くバイトを会社に内緒でしていました。宝塚会館 (今のパルコ)の映画館で、エルビス・プレスリーの「ブルーハワイ」とオードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」の2本立ての看板を描きました。その看板を吊り上げるときに水馬社長に見つかり、翌日会社で言われた一言が「怪我すなよ」、ただそれだけでした。
水馬社長のお言葉で覚えてい ることはありますか?
森藤 水馬社長が常々言っていたのは、「広島には、文化、芸術、祭りというものがない。それらを発表する場所もない」ということでした。それで県立美術館を建てるときには、当時、みづま工房が持っていた上幟町の土地、資材置き場と寮があった土地を寄付しました。その後も、県立美術館建設にあたって財界や行政を動かしたのは水馬社長と画家の小林和作氏でした。
祭りに関しては「とうかさんとえびすさんしかない」と言っていましたが、昭和50年にカープの初優勝を祝うパレードを平和大通りでしたとき、パレードに関しては看板から花車の製作まで全部みづま工房が仕切りました。30万人を動員したこの時の賑わいがきっかけになって2年後の1977年からフラワーフェスティバルが始まることになりました。
今考えると、水馬義輝という人は、当時としてはすごく跳んだ発想の持ち主だったと思います。そのおかげで、美術館はできたし、フラワーは始まったし、そういうところはよかったと思っています。反面、商工会議所では対立した人も多かったとは聞いていますが。

長年にわたって本当にたくさんの仕事をされていますよね。
森藤 平和関係の仕事もいろいろとやりがいを持って取り組みました。8月6日の平和記念式典で、子どもが平和の鐘をつくでしょ。あの平和の鐘の土台・・・その鐘を支えるステンレスの台は私も製作に関わりました。ずっとコンビを組んで仕事をした“にっさん”(西広進さん 後に部長、故人)と一緒に図面を描いて作りました。それがいまも使われています。あのステンレスの台を一時、祇園のスタジオで保管していたこともありました。さらに平和記念式典と言えば、資料館の正面につける大きな文字、これも一番最初はみづま工房が全部やりました。毎年年号の数字が変わるので倉庫で作っていました。最初は発泡スチロールで作っていましたが、その後、板金で作るようになりました。平和公園の原爆慰霊碑が老朽化して建て替えをすることになった時、本物そっくりな慰霊碑のレプリカを作ったことも思い出です(昭和59年)。慰霊碑を垂直に輪切りにしたかっこうで、12mmのコンパネで骨組を作り、慰霊碑の形にし、濡らしたベニヤを張り付け、下地を塗り、その上からウレタンを吹き付けました。


広島市市民局文化スポーツ部文化振興課(所蔵・提供)
まさにものづくりのみづま工房ですね。
森藤 当時は図面が書けさえすれば、どんなものでも作ることができていました。そういう技術は持っていました。そこは水馬社長が「工房」という社名にあえてこだわった「会社の基本はものづくり」という考えで、そのことに誇りを持っていたからです。たくさんのものを作りましたが、そうしたものを作った際に、そのあとのメンテナンスが課題でした。3年、5年と経過した時に次のことを考えておかないと、まず時代に合わなくなります。みづま工房では、当時その観点が抜けていた気がします。作ったときからある程度年代が経ったらそれを見直していくそういう長期的な視点を持てなかったことが課題としてあったかなあと思います。

バブル経済期、歴民館をはじめ各地ハコものの制作を担当されました。
森藤 もっと興味深いのが原爆資料館の仕事です。昭和48〜50年の大改修にあたって山積みになっていたアメリカからの返還資料(写真)を1か月かけて、広島のもの、長崎のもの・・・など全部仕分けをして、資料館に展示する準備をしていきました。市民が描いた原爆の絵の整理もしました。最初はナマの原画を仕分けしていましたが、しばらくして絵が傷つかないように業者に発注しました。その作業を経て、札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、福岡の6会場で展示会を開きました。わたしは札幌と仙台と東京は現地に同行しました。
あとは現在市内のあちこちにある被爆関連の案内板、赤御影石に銅板エッチングの写真のあるものですが、あれはみづま工房がデザインしたものです。その仕事ができたのも大量の写真を地道に整理した実績があったからだと思います。

カープ関係のいろいろと印象深いです。
森藤 カープグッズね。ブラウン監督のベース投げTシャツ (2006年)あたりからカープグッズが注目され始めたんですが、わたしが関わったなかで思い出深いのは、アロハシャツを初めてグッズとして作ったことです。当時、お願いできる縫製工場がなかったので、アロハシャツ100枚を、うちの奥さんとその友達の3人で家庭用ミシンを使って縫ったんですね。女性たちには今でも頭が上がりません(笑)。
それ以前のカープは男性ファンが中心で、市民球場で観戦する人も男性中心。ヤジが多く、マナーも悪い。グッズも男性向けのものばかりでした。「もっと女性が球場に足を運んでもらうには」と松田元オーナーと考えたひとつが若い女性向けのグッズ開発だったんですね。若い娘たちがいたらヤジも飛ばしにくいでしょ(笑)。
選手の思い出で言えば、昨年お亡くなりになりましたが水谷実雄選手のことをよく覚えています。昭和50年の初優勝で祝賀会がホテルで行われたときに、水谷選手が「終わるのが遅くなりそうだよ」とつまみとお酒のボトルと紙コップをみづま工房のスタッフに持ってきてくれました。みんなで大喜びをした記憶があります。水谷選手は、カープの三篠寮近くの大芝公園(西区)でよく練習をされていました。真夜中の真っ暗な公園から「ブンッ」「ブンッ」っていう素振りのものすごい音がするんですね。これを目撃したことがあって、そういった親近感や優しい人柄が印象に残っています。

実は森藤さんは、ある会社からの引き抜きの話もあったそうですね。
森藤 ソニーですね。 1971年だったかな?ソニーのトリニトロンというテレビの新製品が発売されるにあたって、福屋でソニーフェアが開かれることになりました。それは全国8か所の主要なデパートを巡回するもので、福屋での広島会場をわたしが担当しました。その中で提案した無菌室については、その後博多、仙台、名古屋の百貨店会場でも、わたしが提案した方法で展開することになり、各会場図面の作成もわたしに任せてもらえることになったんですね。ずいぶん喜んでいただき、お礼にということで、全国巡回展が終わった時に、展示会で使っていた中が全部見えるスケルトンの18インチカラーテレビやクラシックや映画音楽のレコードセットをもらいました。そのときに「うちにこないか」と勧誘されたわけです。相手がソニーですし、声をかけてもらったことはとてもうれしかったです。給料をはじめいろんな条件も良かったですが、もともと東京には縁もゆかりもなく、知り合いもいなかったことと、広島にマンションを買ったばかりだったので地元の広島がいいと話は断りました。
水馬社長がいつも言っていた言葉があったようですね。
森藤 水馬社長がいつも言っていたのは、「何事にも好奇心、興味をもって物事に接しなさい。本物に触れなさい」ということでした。「本物を見んとダメで。なんぼ絵を見てもつまりゃへん。全然違うで」とよく言われていました。あと「わからんことがあったり、仕事で行き詰まったら現場へ行け。現場に行ってくるっと見て回れ。人の流れとかいろんなことから何かを感じなさい。それでもわからんかったら、それに類似したところを見に行きなさい」と。そしてもう一つ「何にもわからんかったら気分転換に映画でもなんでも見に行きなさい」と言われていました。ですから、仕事をさぼっていたとしてもそういって言い訳をしておけば許されていた時代でもありました。水馬社長はいろんな意味ですごい人。色々と私の仕事ぶりも見てくれていたと思います。休み時間を惜しんでレタリングとか一生懸命練習しているところなんかをね。それである程度は評価してもらっていたかな。だから看板のレイアウトとかで怒られたことは一度もなかったですね。

昭和32年、ヨーロッパ旅行中の水馬義輝